彼女の日常には笑顔が足りない(プロローグ)

 

* その日 *

 宣言通りあおいは週末に計画を実行した。
 彼女の大胆な計画を即答で受け入れたのはよかったけれど、決行の日を迎えると否が応でも浮き足立った。バンジージャンプで橋から飛び降りる者はこんな気分かもしれない。一歩先へと踏み出した後は気分爽快か、それとも後悔の連続か。傍観者は文字通り事のてん末を見守るばかりで命綱だけがかろうじて自分を守っている。今回の計画でいえば僕の命綱は何だろうか。

* 一年前 *

 僕は難関校という称号には縁のない至って普通の大学に進学した。キャンパスは都心から離れた郊外にあったので二十三区内にある実家を出て大学の敷地内にある寮で四年間を過ごした。
 自然豊かなキャンパスはけん騒を知らないまま歴史を積み重ねていた。正門では白髪交じりの警備員が気持ちの良いあいさつをして出迎えてくれる。樹齢百年以上のいちょう並木を歩いて行くと大きな広場にたどり着く。そこでは付属の幼稚園児たちが手をつないで散歩しているのをよく見かける。なんてことのない情景だけれどその一つひとつが僕のお気に入りだ。
 専攻は言語学だった。高校時代の英語教師が英語やフランス語は元々同じ言語だと言っていたのを聞いて、言語学に興味を持つようになった。学生時代に勉学にいそしんだかと聞かれたら否定しなければならない。面倒くさがり屋でだらしない、それが周囲から見た僕の印象らしい。確かに思い当たる点を並べれば枚挙にいとまがない。課題レポートは作成途中で投げ出していたし、寝坊して授業をサボることもあった。とは言え、言語研究に興趣が尽きたわけではなかった。行動への反映率が低いだけで意志はある。あわよくば大学教授になって言語研究を生涯の仕事にしたいとさえ思っていた。ホコリを被った専門書が積まれた研究室で毎日誰とも話さずに言語研究をする。これが慎ましやかな僕の未来。「隠れ人見知り」にはちょうど良かった。
 二年生の時、同じ学科の友人から教員免許を取らないかと誘われた。僕はまったくもって教員志望ではなかった。けれども友人から「教員免許は大学でしか取れないのだからおまえも取れ」と半ば強引に押し切られて志もなく教職課程を履修した。
 四年生の時に地元の中学校で教育実習に参加した。無論乗り気ではなかった。教育に従事する気が皆無だったからだ。冷ややかで反抗的な生徒と対するのはご免だったし、熱心になるほど生徒から嫌われるなんて割に合わないと思っていた。そんな否定的な見方は実習期間中に反転した。「問題のある生徒」は確かにいたけれど、彼らは休み時間になると屈託のない笑顔で交流を求めてきた。何らかの理由で反抗的になったり冷めたりしていても心根は純粋だった。先入観が覆されたときに評価は飛躍的なものになる。単純な僕は天職が見つかったと喜んだ。
 実習期間が終わる頃に教頭が実習生の控え室にやって来た。メタボなシルエットの老体はソファに腰をどっかり下ろして、ただ一人の実習生を愛想もなく見た。
「沢村くん、今は無理だな。ここ何年か東京都の公立学校教員採用試験ではせいぜい一桁しか採用していない。二、三人の年もある。あと三年くらい経てば状況は変わるかもしれないが。まあ、タイミングが少し悪かったというか、運がないというか」
 完成したばかりの僕の人生設計は積み木のタワーを指で押すようにたやすく崩れた。友人は意気消沈する僕を見て、それなら私立校を受けろと助言した。僕は言われた通りに私立校に望みを託すことにした。都内の私立校に採用されるには第一関門となる合同の適性検査を受けなければならない。知人の紹介で教壇に立てる者もいると聞くけれど、僕にはコネもツテもなかった。
 梅雨晴れの昼下がり、適性検査の申し込み会場には受検者が絶え間なく訪れていた。僕のようにリクルートスーツを着ている者が大半だったが、そうでない者もいた。ワイシャツの袖をまくり上げて汗をふき取る三十代半ばの男。非常勤講師として百戦錬磨の経験を積んだと思われる五十代の女。出願時の印象は結果に影響しないと知っていて半袖にカーゴパンツ姿で申し込む二十代の男。こんなことならもっと楽な服装で来ればよかったと僕は少し損した気分になった。申し込みの列に並ぶと目の前にいる色白で細身の男たちの話し声が聞こえてきた。
「去年は法規の穴埋め問題で山が外れたんだよな」
「先輩、髪を振り乱して悔しがっていましたね」
「悔しいに決まってるだろう。あれで一年を棒に振ったんだ。今年はいったいどんな問題が出るのか」
「私は新旧の学習指導要領を比較する問題が出ると踏んでいます」
 不合格になった人間を現実に見つけて僕はじ気づいた。自分には問題を予想するだけの知識もない。僕は現実逃避をしたくて彼らの会話に耳を傾けるのをやめた。やがて彼らは目の前からいなくなり、自分の申し込む番になった。二万円の出費は就職が保証されていないだけにきつかった。僕が浮かない顔で受検料を支払うと、係の女性は白い歯を見せて徴収した。
帰り際、会場内に貼られた掲示物が目に留まった。先ほどのやせ男たちがその前で腕組みをして立っている。彼らの後ろから掲示物をのぞき込むとそこには各教科の去年の倍率が書かれていた。自分の専門教科である国語は倍率が一四〇倍。それは鉛のように重たい事実だった。思い描いた通りに生きるのはなんと難しいのか。僕はいち早く不合格の通知を受け取った気持ちになり、肩を落として帰路に就いた。歩くたびに足がアスファルトに沈んでいきそうだった。

 八月の朝は暑さで目を覚ます。日差しがカーテンを突き抜けて容赦なく部屋を照らす。適性検査当日の朝を迎えた。勿忘草わすれなぐさの空の下、僕は駅まで歩いた。平凡な朝を迎えている通行人の中で自分だけが非日常的な世界を歩いているように思えた。沸き立つ緊張が低周波のようにジリジリと体を刺激する。地下鉄を乗り継いで会場の最寄り駅に着いたのはよかったけれど、知らない駅の構内を歩くのは心細かった。東京育ちとはいえ未踏の地は幾らでもある。同じ方向に進む人たちの目的地はおそらく同じであろう。強い意志を持つ彼らの後ろ姿を見ていると自分が場違いな存在に思えてくる。僕の夢は浅はかで信念がない。
 会場は私立女子校の真新しい校舎だった。僕は入口の受検番号と教室を照らし合わせて五階に上がった。教室のドアを開けると既に七割程度の席が埋まっていた。この教室には国語科の教員志望者しかいない。そればかりか六階建ての校舎全てが国語科の受検者で埋め尽くされている。誰も彼もが猛者のように見えた。昨年の倍率から考えるとこの階にいる全受験者の中で一位にならないと採用されない。僕はふぅっと一つ大きな深呼吸をして覚悟を決めた。
 一ヶ月後に結果は届いた。国語はA判定で、教職科目はB判定。僕はまだまだ未熟者だった。

* 春陽 *

 春が新たな始まりを告げた。桜は祝賀を体現するように春の色彩を帯びて咲き、人々はこぞって自然界の産物にくぎ付けになる。
 ここは東京から鈍行で二時間ほど離れた街。一級河川が街の北西を流れ、その奥には濃緑の山脈がはるか遠くまで連なっている。オフィス街は駅のごく周辺にとどまっていて、二十階以上の建物は一棟もない。繁華街と呼べるエリアはなく街全体が物寂しい。全国的に知名度の高い高級百貨店がこの街で一店舗だけ営業している。小規模でデパ地下もないけれど、その存在事実がこの街の住民にある種のステータスを与えている。全長五百メートルにも及ぶ商店街は軒並みシャッターが下りていて過去の遺産になっている。駅の周辺半径二キロには国道が環状線のように通っている。週末に国道沿いの大型スーパーへ買い物に行くことが地元の人たちの慣例になっている。
 僕は三月に大学を卒業してこの地方都市にある栄峰えいほう予備校に就職した。学校の教師になるという夢は叶わなかったが、倍率を考えればこの結果は定めだったのだろう。運命にあらがうのは好きではない。目の前の道しるべをたどって緩やかな人生を歩めるのなら、それで構わない。
 予備校は駅から徒歩三分のところにある。七階建ての校舎の最上部には大きな予備校の看板があるため、遠くからでもそれとわかる。校舎の壁に固定された大きな垂れ幕が新入生を募っている。実際、立地条件の良さもあって生徒数は多い。授業は月曜日から金曜日まであり、一時限目は九時十五分から始まる。浪人生といえば浮かない顔をして予備校生活を寡黙に送るイメージがあったが、実際の彼らは友達を作ってそれなりに毎日を楽しんでいた。
 僕は築三十六年の四階建てアパートの三階に住んでいる。外壁は黒カビと水アカの汚れで見るからに年季が入っているが、内装は数年前にリフォームされてそれなりに綺麗だ。部屋は八畳の広さでユニットバスとキッチンが付いている。電化製品はテレビとミニ冷蔵庫だけ買った。来春には帰京して都内の中学校に就職したいと思っているのでなるべく物を増やさないようにしている。炊飯器がないのでお米はホーロー鍋で炊いている。慣れてくると感覚で水の量や火加減を調節し、炊き上がりの時間もわかるようになった。食パンは八枚切りを買ってきてフライパンで一枚ずつ焼いている。じかに焼くと表面がこげてパサパサになるし油を引けばくどくなる。僕は少量の水をパンにかけて焼く。母親は僕がファストフードばかり食べているのではないかと心配している。不精な自分にファストフードやコンビニ弁当はおあつらえ向きだったが、それ以上に倹約家の血が騒いだ。近所のスーパーマーケットに行くたびに食品の最安値を書き留めている。最安値を更新する店が見つかればメモを上書きする。メモを頼りに店をはしごして安い食品だけを購入すれば、結構な節約になる。
 朝はぎりぎりまで眠っていたいから予備校まで自転車で通える距離にあるアパートを借りた。僕はいつからかこの国で市民権を得ていた「スヌーズ」という言葉をまるで呪文のように毎朝唱えている。唱え過ぎて出発が遅れた朝はこの街で買ったシティサイクル型の自転車を一心不乱にこいで遅れを挽回する。寂れて空洞化した街を通り抜けて予備校の駐輪場に到着したら次は講師室まで走っていく。「登校時刻」は常に八時五十九分。ロッカーに荷物を入れて講師室に向かうと九時ちょうどの朝礼が始まる。
「新入り君、今日こそ間に合わないかと思ったぜ。俺が無駄に冷や冷やするんだよな」
 隣の席に座っている徳田が髪を掻きむしりながらけだるそうに言った。徳田は三十一歳の男性講師で同じ国語科の先輩だ。あごに無精ひげを蓄えた徳田は常にワイシャツの第一ボタンを外し、ネクタイを緩めている。話すと煙草の強烈な匂いを放つのでそのたびに僕はむせている。かなりの酒好きで週末になるときまって僕を飲みに連れて行く。
「徳田先生、大丈夫です。私は時間に正確な人間ですから」
「ある意味な」
「明日もきっかり八時五十九分に登校します」
 正確なのは登校時刻だけではない。下校時刻もいつも決まって十八時五分。僕には残業の美学がない。

* 若葉 *

 五月は気分がいい。四月は新しい出会いや環境の変化があってずっとそわそわしているけれど、五月になるとそんな心も落ち着く。太陽の光を浴びる新緑にさえ柔和な目を向けられる。きっと自然の美は見る者の心にるのだろう。
 その日は食料品を買いたくて予備校帰りに駅ビル内のスーパーマーケットに立ち寄った。買い物客を対象にした駐輪場がないのでロータリー近くの路傍に自転車を停めた。駐輪禁止だと知っていながら客の多くがその場所を利用している。右手にある階段を上ると駅ビルの入口につながる歩道に出た。歩道はレンガが敷き詰められ、その両脇にはプラスチック製の白いベンチが等間隔に並んでいる。この歩道を通るようになってからベンチに座る者を見たことがない。学校帰りの高校生たちもよもやま話に花を咲かせながら形骸化した憩いの場を通り過ぎて行く。
 風が吹き抜けて髪がかすかになびいた。五月の風が地方都市のささやかな喧騒を包み込んで南西の空へと流れていく。風の行き先からカナリヤ色の光が世界を照らしている。哀愁を引き立てる光ではなく、青春をもたらす光。その世界にいる者の口元を緩める暖かい風と光。まばゆい光に僕は目を細めた。やがて光のほうに一人の女性を見た。この美しい世界の中であの白いベンチに一人座っている。肩に掛かるほどの髪はさらさらと揺れていた。ワンピースが陽光に透けて白肌の細腕をさらしている。どのような服を着れば自分が最も魅力的に見えるのかを知り尽くしているようだった。僕は歩きながらその姿に焦点を合わせた。あのベンチにいるのが珍しいからではない。彼女の澄んだ瞳があてもなく遠くを見つめていたからだ。流れゆく風と時の中でいつまでも記憶から移ろうことのない一瞬だった。
 辺りがあかね色にすっかり染まった頃、買い物袋を提げて戻って来ると白いベンチはひっそりと虚しくなっていた。

 五月下旬にもなると生徒の顔と名前が一致するようになる。講師一年目の僕はもっぱら基礎レベルの授業を任されていた。
「どうだい、新入り君。授業には慣れてきたか」隣に座っている徳田が背もたれの可動域限界までのけぞりながら僕に聞いた。
「だいぶ慣れたと思います。最初の頃は教え方が下手で授業が終わるたびにたくさん質問されましたが、最近は一人を除いてすっかり来なくなりましたね」
「その一人って、あの子のことか。古典が苦手で浪人したらしいから人一倍熱心なんだな」
 徳田は上体をゆっくり起こして次の授業の教材を手に取った。
「新入り君が授業に慣れたのはひとえに嬉しい。教える者の姿勢は焦らずに学んでいけばいいから」
 僕は何とはなしに「はい」と返事して古典の授業へと向かった。

駿しゅん先生、質問タイム」
 授業を終えて教室を出ると、女子生徒の菅原彩菜が慣れた様子で話しかけてきた。彩菜は今年全国有数の私立大学に合格したが、国立大学に行きたいという理由で浪人生活を選んだ生徒だ。授業中はいつも最前列に座って解説を聴き、授業後は質問を欠かさない。
「傍線部の『に』は完了の助動詞の連用形かと思ったんだけど、どうして違うの」
 彩菜は苦手科目の古典を基礎からしっかり学び直すため、気になることがあれば何でも質問した。実のところ、学生時代の僕は古典文法をあまり理解していなかった。本格的に勉強し始めたのは教員採用試験を受けると決めてからだ。知識が浅いと自覚している分、入念に授業準備をしている。その甲斐あって彩菜の質問にも対応できていた。
 説明し終えてふと廊下の先に目を向けると、けだるそうに壁にもたれ掛かっている徳田が七、八人の生徒から質問を受けているのが見えた。
「駿先生、お願いがあるんだけどいいかな」彩菜はそう言って僕の視線を正した。
「別の質問かい」
「ううん、勉強のことじゃなくて。あ、でも勉強って言えば勉強かも」彩菜は作為的な笑みを浮かべて言った。「いや、実は近所に住んでいる子が高校に入学してすぐに中退しちゃってさ。小学生の頃に何度か遊んだ程度だけど、最近見かけないから気になっているんだ。多分一年以上は家に引きこもっていると思う」
「そうなんだ。でも、話が読めないな。その子がどうしたの」
 彩菜との会話の合間に徳田たちの歓談が聞こえてくる。彩菜はその声をかき消すように僕の質問に答えた。
「つまりはさ、その子に勉強を教えてもらえないかなって。このままだとあの子はずっと引きこもりかもしれない。それは良くない気がするんだよね」
「友達想いだね。それでその子がここに通ってくるのかい」
 彩菜は僕に歩み寄って「そう、こっそりね」とささやいた。「ほら、一年も家にこもっていたから集団授業を受けられるかわからないでしょう。だからまずは駿先生に個人的に補習してほしいんだよね。こういうの無料お試し期間っていうのかな」
 彩菜は大胆なことを言う。校舎一階のエントランスには受付があり、手持ち無沙汰の受付嬢が二人座っている。二人は互いのことを知り尽くしてしまったのか、会話する姿をほとんど見たことがない。受付ではセキュリティチェックがない。もしかしたら部外者でも校舎内に入れるのかもしれない。
「駿先生、これはその子の人生の大きな転機になるかもしれない。先生だからお願いしたんだ。先生ならあの子も変わるかもしれないって」
 彩菜の表情は真剣だった。親しみを込めて下の名前で「駿先生」と呼ぶのは彩菜しかいない。
「わかった。その子が来てくれたら補習するよ」
 彩菜は礼を言うとそこから早口でまくし立てた。「じゃあ、彩菜が自分のママに伝えて、ママがその子のお母さんに伝えることにするから。お願いを聞いてくれてありがとう」彩菜は用件を済ませると僕に手を振って教室のほうへと戻っていった。僕が後ろ姿の彩菜に向かってその子の名前を尋ねると、彩菜は教室のドアを開けながら振り向いて言った。
「葵」

 

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